医者の目も
大衆であるあなたの目も
鱗に覆われていないか?
かつて日本は、中国や朝鮮、東南アジアに「侵略した」。これは、現在では否定しがたいことである。しかし侵略していたとき「侵略する」とは言わなかった。
「聖戦」であり「正義の戦争」と教えられ疑いはしなかったのである。
ヒットラーがヒットラーたりえたのは、虐殺でしかありえない行為を「大義と美しいスローガン」で粉飾し、大衆の目を覆ったからに他ならない。
脳死臓器移植でも同じことが起こっているといえないだろうか?
私たち大衆向けの「大義と美しいスローガン」は、「助かる人がいるのだから」「崇高な精神」「命への思いやり」「命のリレー」「愛の行為」「愛のギフト」「命の贈り物」などなど。美しい言葉が洪水のごとく降り注ぎ、しんしんと降り積もる雪のように、「『脳死』臓器移植は善行」という観念が堆積していく。
目は鱗で覆われる。
こうなったら、どんな事実を突きつけても事実さえ見えなくなってしまう。「脳死は体が温かく心臓は動いている」「臓器摘出されるとき、メスを突き立てたら血圧が上がって手足を動かした」「救命治療がされていなかった」と訴えても、「でも死んでるのでしょ!」「いずれ死ぬのだから」「助かっても障害を残すから」「本人がいいというのだから、周りがいろいろ言うことないじゃない」など、というようになる。
医者向けの「大義と美しいスローガン」は、「臓器提供が患者さんの権利で、これに答えるのが医者の義務」「善意をいかさなければ」「善意をいかせなかったら大変だ」である。
医者は、ドナーカードを持っている患者の基本的人権(生存権)を忘れ去る(底辺に沈み込む)。『臓器提供の意思』の尊重を、何よりも優先しなければと考える。
ドナーカードを持って入院するや、「脳死で臓器を提供したい人」ととらえ、「脳死で臓器を摘出する」ことに義務感を感じる。現場の医師をこのような状態に呪縛する。
これは、記者会見の席上で堂々と語った2人の医師の発言に端的に表れている。高知赤十字病院・西山医師「脳死にもっていけないかとおもった」(すなわち、意識的に脳死にもっていった)古川市民病院「脳死で臓器提供しないとまずでしょう」(10時間以上患者を野ざらしにして脳死にもっていた)。
そして、 臓器提供に至らなかった病院では異口同音に「意思を尊重できなかった」と嘆いてみせる。嘆くべきは、救命のプロ、脳外科のプロとして患者を助けることができなかった点にあるはずだが?!
人々の目から鱗を落とすには、ドナーの立場に徹底して立つ以外にない!
「脳死」臓器移植は、一人のドナー(臓器提供者=臓器摘出される人)と一人ないしは複数のレシピエント(ドナーから摘出された臓器を移植される人)の存在なしには成り立たない行為である。
ドナーにされる人の人権もレシピエントの人権も対等である。
しかし「脳死」臓器移植は、この両者の人権関係を対等にしたのでは成り立たない。
ドナーにされる人の人権の消滅によってしか「脳死」臓器移植は成り立たないのである。
レシピエントが「移植でなければ助からない」、かもしれない。
しかし、これはドナーにされる人の人権の消滅なしにはありえない。
ゆえに、何よりもまずドナーにされる人の人権がどのように扱われたか、扱われるか、を見ることなしに、「脳死」臓器移植の本質はみえてこない。
ドナーの立場に徹底して立つことなしには、「脳死」臓器移植の本質はなにもみえない。眼にへばりついた鱗は落とせない。
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