以下、声明全文引用:「『脳死』臓器移植に反対する国際共同署名」
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「脳死」を「人の死」とみなすことに反対する共同声明
● 「脳死」概念は生命と真理に敵対している
ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は2000年8月29日第8回国際移植学会世界会議で演説を行ったが、これは「脳死」と臓器移植をめぐって現在進行している論争に、改めて関心を呼び起こすものとなった。この論争は肉体的にも精神的にも文字どおり「生死に関わる問題」であるから、「脳死」と臓器移植の本来的な特性をはっきりと理解することが、殺人を阻止し、真理を歪曲から守り、生命の保護を進めていくうえで不可欠なのである。
ローマ法王が指摘した「人間が正真正銘に"死亡"したことを示す生物学的徴候を見極めるための科学的に揺るぎのない方法」が欠落している現状では、臓器移植をめぐる問題に論理的にも倫理的にも適切な判断を下すことは不可能である。それゆえ、我々はまずもって「脳死」という概念を徹底的に問い直さなければならない。この作業を行うことによってこそ、「寄贈者」(ドナー)と呼ばれている人々から、"致命的に重要な臓器"を摘出する行為についても、その合理化を許すことが初めて可能になるであろう。
1、「脳死」概念の欺瞞を許すことはできない
ローマ法王は、何をもって"死んだ"と見なすか、という「死の判定」の根拠が「伝統的な、"心停止と呼吸停止"という徴候から、いわゆる"神学的基準"へと」ずらされてきた歴史を指摘し、そのうえで、「死の判定基準」のこうした変更の本質を、「世界中の科学者たちから広く支持が集められるようななにか明確に規定された"約束事"を、"死の判定要件"とみなし、それを"ものさし"にして、全脳(大脳・小脳・脳幹)活動の完全かつ不可逆な停止こそが"人の死"なのだ、と制度化していまうことにある」と喝破した。
こうした"判定要件"のたぐいは、患者に「脳死」であるとの宣告を下すために並べ立てられてものなのであるが、いまもって「明確に規定」されているわけでは全然ないし、科学界が国際的に「広く支持」しているわけでも全くない。
それどころか「脳死」基準は、1968年に『不可逆的昏睡の定義』という意味深長なタイトルの宣言書が発表されて以来、わずか10年ほどの間に30種類以上の"変種"が次々と現れて、それがいずれも大目に見られてきたというのが歴史的実態なのである。
しかも科学界の中に「脳死」概念の再検討に取り組む者が次第に増えつつあり、疑念の声を上げているのだ。
「全脳(大脳・小脳・脳幹)活動の完全かつ不可逆的な停止」が起きたということを道徳的確信をもって知るためには、血液循環と呼吸が完全かつ全面的に消失していなければならないはずだ。血液循環と呼吸の完全かつ全面的な消失を確認すれば、必然的に、大脳・小脳・脳幹がすでに破壊されなおかつ循環器系と呼吸器系が破壊されたことが、確認できたことになるだろう。
人の死を判定するために「いわゆる"神経学的基準"」というどうにでも変更できる根拠を持ち出したところで、「全脳活動の完全かつ不可逆的な停止」を確認するために、"死の判定基準"を「厳格に適用」すべきだというローマ法王の要請は、なにひとつ満たされない。実際、「脳死」というのは"死"ではない。脳全体と呼吸器系と循環器系がすべて破壊されない限り、"死"の宣告を行うべきではないのだ。
2、身体に一つしかない死活的重要臓器の移植行為は許容できない
ローマ法王は、1995年に出した、第11回の回勅『生命の福音』(Evangelium Vitae)の言葉をあらためて口にし、「臓器の寄贈も、真正なる生命尊重の文化を育むひとつの方法であろうが、ただしそれは倫理的に受け入れられるやり方で実施されなければならない、と示唆した」。「倫理的に受け入れられる」やりかたとは、自然道徳律と、その4つの原理―@善を為すべきであり悪を避けねならない、A善の実行を差し控えてはならないB悪を為してはならない、Cたとえ善を生み出す可能性があっても悪を為してはならない─に合致したやりかたである。
したがって「寄贈者」(ドナー)と呼ばれている人々を衰弱させるような切除を行ったり、さらには死に至らしめるやりかたで臓器を刈取る行為は、「倫理的に受け入れられる」ものではない、ということになる。
法王は、臓器を寄贈しようという決断をいみじくも「死活的な意思表示」と評して、こう警告した─「人がこうした死活的に重要な意思表示を行った場合、それが信頼するに足りる決断であるためには、意思表示を行う主体が、その意思表示によってこれから起こることについて、きちんと正確に知らされていることが不可欠である。このような徹底的な情報提供を受けてこそ、人ははじめて、自由意思と良心にしたがって同意なり拒否を行う立場にたてるのである」。
臓器寄贈をしようかどうかを考えている人に行う告知が適切であるためには、臓器移植の現実についてくわしく教えておく必要がある。特に、次のように忠告しておくことが肝心だ─「臓器摘出までは、あなたの心臓は健康そのもので、ふだんのように身体に血を巡らせる能力が保たれていますし、あなたは呼吸だってしているのです。でも、死活的に重要な臓器をどれかひとつでも摘出すれば、あなたは死ぬのですよ」と。
さらに「寄贈者」(ドナー)志願者には、臓器摘出のための切開が行われる際には「寄贈者」が動かないようにするため麻酔剤が打たれることも知らせておく必要があるし、臓器摘出に先立ち麻酔をかけるかどうかを相談し─これは麻酔医たちが勧告してきたことなのだが─「寄贈者」本人の意向を聞いておく必要がある。
"自由"と"勝手気まま"を混同されては困るので、ここでは注意しておかねばならないが、"自由"とは、"自由な(束縛のない)意思を、ただしい思慮分別にしたがって実行する権利"によって認められるものであり、善を為し悪を為すまいと努めればこそ、認められるものなのだ。自殺も他殺も、正しい思慮分別からみて決して許されないものなのだ。
ローマ法王は、「人名の尊厳はかけがえのないものだ」という見地から臓器の摘出に重大な制限を課した。すなわち、「身体にひとつしかない死活的需要臓器は、その人が死亡したのち初めて摘出が許される。つまり、確実に死亡した人の身体からしか、そうした臓器の摘出は許されない」と明確に規定したのであった。
さらに法王は、こう付け加えてのである─「こうした要件を設けることは、説明するまでもない自明の道理だ。なぜなら、この要件を魅しして臓器摘出を実行するならば、"寄贈者(ドナー)"の臓器を処分するに際して、その人物を意図的に死亡させることを意味することになるからだ」。
死活的に重要な臓器を移植する場合には、生きている人から摘出した"生きている臓器"でなければならない。ところが既に述べたように、「脳死」だと宣告された人たちは「隔日に死亡した」わけではない。それどころか全く逆に、まだ確実にいきているわけである。
だからローマ法王が明確に規定した「脳死」患者からの臓器摘出制限を遵守し、自然道徳律において神身らが世の人に課した禁制を守ろうとするなら、身体に一つしかない死活的需要臓器を移植に用いる行為は無条件に禁止すべきだという道理になる。なぜならばそうした臓器の摘出は"寄贈者(ドナー)"を死にいたらしめ、モーゼの十戒の第五の戒律を破ることになるからだ。「汝、殺すなかれ」(旧約聖書、申命記・第5章17節)という戒めを。
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以上の共同声明は、ローマ法王の演説を主に構成されている。私たち(医療を考える会)は、無神論の立場ですが、脳死臓器移植に反対するという共通の立場から、この共同声明を指示しています。
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